就職・起業・継承について
地域で仕事をすることを決める・・

自分で、職業や仕事を決めることから始める
失敗しない仕事選びするために次の手順で始める
決めたからと言っても絶えず修正することも大事です。

自己理解
まずは作ってみようJOBカード

職業理解
自分が興味がある。知識がある。経験がある
決めた職業・職種を書き出す。
職業情報提供サイト

企業研究
自分がしたい仕事を持っている企業を探す。
探す方法は、インターネット求人サイトなどを利用する。
企業が決まれば、その企業の環境を調べる。
四季報、証券情報、求人支援会社、企業ホームページなどを
利用して調べる。
地域中小企業や個人事業主では、商工会や中小企業振興など
に行き情報を集める。会社見学や社長と話すことも大事。

四季報サイト

企業の選択・決定
職種・職業などを考慮し複数社選ぶ

行動する。

事業計画事例
これは、実話です。儲かりましたが、私は、無給です。
ある日、知り合いが何か儲かりどころの商品はないか相談された。
当時、大日本印刷で、係長をしていた私
大手電機メーカー数社を担当し、回路設計の受託設計をしていた。

周りは、パソコン、ワークステーションの設計支援ハードソフトを利用していた。
当時、パソコンでは、DOSからwindowsに変わり始め、ソフトは、ジャストシステムの一太郎・花子が普及し、マイクロソフトオフィスが出始めた。ホームページは、大手企業や行政機関、大学と趣味で開設している個人ぐらいでした。
もうお分かりですね・・
誰でも操作や制作ができる解説書があれば、売れるよね・・


制作のきっかけ
大学を卒業して15年後、卒研ゼミの恩師から物理のeラーニング教材を簡単にできるソフトがないかの相談でした。調べるとあって高価で、買えない。それなら開発しようと大学時代の友人が社長をしているベンチャー企業に相談。
産学で、開発スタート。
教材は、大学、ソフトは企業で、始めた。
ソフトには、テキスト、動画、画像、音声、シミュレーションが提供できるソフトを開発した。ソフト自体を売る気はなく、ここまでソフト開発後、目的のeラーニングに着手した。
そのソフトを利用して何か次の商品を開発できないか企画会議をした。

MSマイクロソフトやホームページビルダー、ビジュアルベーシックなどが、利用できるテキスト解説書がないのに着目し、これらを通信教育教材として開発することに決めた。


開発手順
続きは講座でお話しします。
 

では、淡路島で直ぐにソフトウェア工場ができるのかと言えば、今のままでは、出来ません。
なぜなら環境がない。人がいない。しかし、ネットが利用できる。交通網はある。自然豊かで
ある。海畑の恵みはある。土地もある。

事業企画
まず、事業所を大阪に開設する。得意先を多く作る。業界人脈を作る。
商品企画は、通販、ホームページ制作支援、ソフトウェア、教育など
取引先
 島内では、観光、農業、公共団体、民間企業
 島外では、企業、学校の研修教材開発

会社創業
創業社員募集、資金調達、助成金など

創業計画
地域で働くには、家族の承諾が重要です。また、今まで学んだことから自分ができることは
何か、その地域にニーズやシーズかあるか、仲間を作れるか検討する。
地元にUターン、Iターン(家族の地元)あるいは、新天地かで、条件が違います。
最初から副業で、すでに受注先があればベストです。そうでなければ、地域の創業支援がある
か、あれば利用する。また、地域の会社に就職して考える。

私個人は、大日本印刷内で、子会社設立、運営に携わりました。

私が働いた時は、終身採用時代の後期でした。途中、オイルショック、バブル崩壊、リーマン
ショックで、しかたなく会社を辞める人が多くいた。そんな人材が、起業して成功した事例が
多い。当時、多くの大手企業が、事業分野毎或いは、分社化が、企画されていた。
1945年戦後の財閥解体とは違い。1980年ごろからグループ企業子会社が増えていた。
私が大学を卒業前後の1976年から90年にかけ、子会社設立が始まった。
1975年ごろは、新聞就職欄を見た時、大手企業では、新卒採用だけだった。ほかは、中堅
中小企業の求人広告でしたが、オイルショックからバブルにかけ、大手子会社設立社員募集が
増えていった。
建築系、精密機械系、電気電子系と子会社(グループ会社)が、目立つようになった。
さて、何故辞めなかったか・・
それは、大日本印刷に入社し、そろそろ、技術も習得したので、電子回路系の企業に転職
を考えていたころでした。当時、いろいろな企業が、半導体事業に参入し、技術者を募集
していた。給料もよく魅力的な企業が多かった。しかし、新規参入事業は、厳しいものが
あることを肌で感じていた。大日本印刷も1980年ごろは、新規事業であり、半導体事
業の立ち上げ時期だった。入社後、数年で多くの仲間が辞めていった時期もあった。
ちなみに現在は、素晴らしい一流企業に成長している。
私の話に戻るが、当時、そろそろ辞めるかと考え、企業探しを始めたころ、上司から個別
に半導体設計事業子会社設立の話があり、どうするか聞かれた。
この話がなければ、会社を辞め、別企業か独立開業を考えていました。
当時、協力会社や受注先や展示会で、名刺交換した企業からヘッドハンティングあったよ
うな記憶がある。当時の辞めていった仲間もそんな感じでした。
たまに展示会に行くと、そんな仲間が多く見受けられた。

私は、子会社大歓迎、給料も事業も拡大できる体制でした。
立ち上げ5年は、思うように仕事ができたと感じています。その後、バブル崩壊、リーマン
ショックと厳しい時代も経験し、定年5年前は、別のグループで、技術者採用を始めました。
途中、技術者採用や人材育成に力を入れたこともあり、別グループでは、昇給や出世を考え
ず自分のために働きました。信長ファンであり、人生50年と考え、生きていれば次のステ
ップに進むため、仕事の合間に資格取得に力を入れました。(仕事はちゃんとこなし、少し
内緒で、キャリコン、博士号、その他の資格を取りました)

現在では、働き方改革もあり、定時退社が増え、余暇で、資格取得やスキルアップができる
環境下になります。集団研修から個人研修での自己研鑚になっています。(大手企業、中堅
中小もそろそろかな)

定年後は、地域で生活をしようかと・・・
地域はいろいろですが、伊豆や淡路島、九州、四国や北海道と第二の住み家探しをしました
ができませんでした。当時、家族の負債である事業を清算しなくてはならなくなり、新天地
へ行くことができない状況でした。事業資産や従業員がいれば、何とかしたいと思いまっし
たが、ただの借金だけでしたので、土地建物を売却しました。サラリーマン生活でしたので、
単発の資金調達ができないことが致命的でした。しかたなく土地建物を全部処分して、清算
しました。これもよい経験でした。定年15年前でした。

現在の仕事は、大学講師、企業コンサルティング、インターネット設定やホームページ制作
です。趣味で始めたインターネットやパソコン設定、ホームページ制作は、どこでもできる
仕事です。そこには、必ずきっかけがある。インターネットは、ドットコムマスター資格取
得後、現在はミライドとの委託契約、大学講師は、学会人脈、ホームページも大学恩師や企
業内広報室担当者との縁で、サイト制作や企業内セキュリティ対策委員会
パソコン設定は、趣味で自作パソコンや中古パソコン修理など

ボランティアでは、パソコンボランティア代表、青少年ボランティア委員会副委員長で、地
域貢献をしています。
結局、地域に行けませんでした。今は、遠隔からサポートができないかオンラインサポート
のサイトを構築しました。利用ツールは、moodleシステム構築から運用までeラーニング、
テレビ会議、オンライン講座です。

若い時に地域で活躍する方法は、その地域を愛することでしょうか
1)生活の基盤を作り上げること
2)その地域に人脈を作ること、親しい仲間を作ること、将来の伴侶を見つけること
3)そして、起業相談できる地元の人

私の体験
地域で活躍できませんでしたが、大企業に入り、中堅社員になり、採用活動や技術調査で、
全国に出張した経験を作りました。大学では、教員と親しくなり、その地域の技術情報を
知りました。地域で働くきっかけも多くできました。
大学あれば、地域に技術を生かした企業ができる。当時は、大学発ベンチャーが多くで
きていました。そこに飛び込む勇気があれば・・・

南あわじ市には、工業団地、大学の農業系学部や水産研究所がり、役所と協働事業をして
います。しかし、活性化するレベルではないようです。

技術者が、地域に住める環境作りができない。その地域の特性は、農水産業および観光業
が主な産業になるためです。これでは、個人が先に進めません。やはり、行政と共に活
動することが重要です。失敗は、つきもの10年から50年かけて目的を達成できる組織
が必要です。

東京都や埼玉県では、65歳以上の活躍を後押しする組織ができました。今までは、50
歳から、60歳だったのが、65歳以上とジャンルを増やしました。人生100年と一生
現役に変わりました。働くだけでなく、若者人財育成や地域活性化にも活路が生まれます。

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